ブローラ蒸溜所

Brora Distillery

スコットランド・ハイランド、ブローラに位置する蒸溜所。ハイランド地域に分類される。
ハイランド・クリアランス(後述)の中誕生した蒸溜所の一つ。
“Brora”は「橋の架かった川(river with a bridge)」を意味する古ノルド語”brùra”から

歴史

1819年、第2代スタッフォード侯爵ジョージ・ルーソン=ゴア(George Leveson-Gower、後の初代サザーランド公爵)により、侯爵が所有する農地で生産された大麦の使用と、領地内からの密造酒業者の駆逐を目的に設立された。
設立当初の名前はクライヌリッシュ(Clynelish)蒸溜所。
1824年に侯爵がライセンスを取得した後は、蒸溜所は幾人もの手にリースされ運営されることになる。

1896年、グラスゴーのブレンダー会社ジェームス・エインズリー(James Ainslie & Heilbron)が蒸溜所を取得、同年改築される。
エインズリー社は1912年に破綻、蒸溜所はDCL(Distillers Company Ltd)とジェームス・リスク(James Risk)の共同所有となるが、1925年頃にはDCLが単独オーナーとなっている。
以後現在に至るまで蒸溜所はDCLとその継承団体であるディアジオが所有している。

アメリカでの禁酒運動の高まりと世界大恐慌の影響を受けた1931-38年と、第二次世界大戦下の1941-1945年にはそれぞれ操業の停止を強いられた。

1967年、ブレンド用原酒の需要増加に伴い、DCLは蒸溜所の隣に近代化された同名の新蒸溜所(現クライヌリッシュ蒸溜所)を建設。
1969年(1968年とする資料有り、後述)に旧蒸溜所が一時閉鎖されるまでの間、2つの蒸溜所は「クライヌリッシュ A」「クライヌリッシュ B」と呼ばれたが、どちらがAでどちらがBだったのか、今日では判らなくなってしまっているという。

その後、同じDCL傘下のグレン・ギリー蒸溜所閉鎖でピーテッド原酒が不足したこともあり、旧蒸溜所はブローラと改名されて操業を再開するが、この再開がいつの事だったのかは資料により1969年から1975年の間で定まっておらず判然としていない。
オーナーのディアジオは閉鎖期間を1968年1975年だとする資料を発行した事があるが、そのディアジオは前身であるUDV時代にレア・モルトシリーズから1972年ヴィンテージのブローラを発売している。

いずれにせよブローラは1970年代後半には再稼働していたが、1980年代のスコッチ・ウイスキーの不況を受け1983年に閉鎖された。

2017年、世界的なウイスキーブームを受けて、ディアジオはブローラとポート・エレンの再稼働を決定。
2020年の再開を目指し、2019年現在目下再建中である。

ハイランド・クリアランス

スコットランドのハイランド地方では1780年代から19世紀前半にかけ、後にハイランド・クリアランス(Highland Clearances)と呼ばれることになる地域住民の大規模な強制移住が行われた。
この強制移住は、英国内で羊毛の需要が急拡大したのを受け、地主達が自らの土地から借地人を追い出し牧羊地とする為に行われたのだが、同時にハイランド地方の多くの氏族(クラン)が加担した1745年のジャコバイトの反乱に対する弾圧の延長、産業革命に起因する囲い込み運動、1780年代や1816-7年の飢饉のための口減らしなどの側面も併せ持っていた。
故郷を追われたハイランダー達はハイランド沿岸部やローランド地方、あるいはその後移民として北米やオーストラリア、ニュージーランドなどへの移住を余儀なくされることになる。
ハイランド沿岸部へ追いやられたハイランダー達の受難は強制移住だけには留まらず、地主や資本家達によってハイランド沿岸部に新設された紡績や蒸溜所などの工場で安価な労働力として利用されることになる。
クライヌリッシュを設立した初代サザーランド公爵は、当時イングランドとスコットランドに莫大な土地を所有した英国有数の大地主で、自身の土地から移住させた住民は15,000人にのぼるとも言われるなど、妻のエリザベスと共にハイランド・クリアランスの中心的人物として極めて悪名高い。
ブローラの他、ハイランド・クリアランス下で誕生し現存する蒸溜所としてはタリスカーティーニニックなどがある。

生産

ライトリーピーテッドのウイスキーを生産していた蒸溜所だが、1970年代には同じDCL傘下のグレン・ギリー蒸溜所の閉鎖やカリラ蒸溜所の改築などに伴う不足分を補う為、一時ヘビリーピーテッドの原酒を生産していた。
閉鎖後に発売されたブローラ名義のボトルは、どれも高額な値付けがされている。